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〒922-8622 石川県加賀市大聖寺 南町ニ41番地 加賀市役所別館4階 ■お問合せ TEL:0761-72-7888 FAX:0761-72-7991 メールアドレス: bunkazai@city.kaga.lg.jp ![]() |
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所 在 地 大聖寺敷地 所 有 者 菅生石部神社 指定年月日 昭和34年7月13日 当該資料は、日本書紀に出てくる彦火火出見尊と火照尊の「海幸山幸」神話の潮干玉・潮満玉と伝えている。神話では彦火火出見尊が兄である火照尊を懲らしめるのに使ったとされている。当社に伝来した経緯は不明であるが、祭神に彦火火出見尊を祀っていることから伝来したものであろう。民俗資料として他に例を見ないものである。
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所 在 地 大聖寺敷地 所 有 者 加賀市 指定年月日 昭和51年2月9日 白山麓及びその附近において使用された生産、生活、信仰等に係わる資料である。当該資料は、その点数、種類の豊富さ及び管理状態の完全さからみても、当市および白山麓の民俗を知るうえで大変貴重な資料である。 大部分が国指定重要有形民俗文化財に指定されたが、一部未指定となったため、それらは市指定文化財のままとなっている。
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所 在 地 大聖寺京町 所 有 者 錦城能楽会 指定年月日 昭和46年3月8日 「お松囃子」とは、江戸時代に全国の大名家で正月2日もしくは3日に行われた「謡初め」のことである。大聖寺藩第十四代藩主利鬯は明治以降、大聖寺の町民にも能楽を奨励したため、今日まで続けられてきた。 他地域では途絶えた謡初めの行事が現在まで継承されているのは、全国的にもその例がなく貴重である。
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所 在 地 動橋町 所 有 者 動橋民謡保存会 指定年月日 昭和39年1月24日 子どもたちが動橋川で水遊びをするときに歌うわらべ唄で、ゴリを捕まえるときに、「ゴリや ゴリや」と歌ったところからこの名前がつけられたという。 わらべ唄は子こどもたちの生活を主体とした場で歌われるものであり、このように魚捕りの場で歌われることは珍しく貴重である。
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所 在 地 黒崎町 所 有 者 黒崎土ねり節保存会 指定年月日 昭和56年7月30日 黒崎町で灌漑用の溜池堤防を作るときや修理の際に歌われた労働歌である。 土踏みの作業では前歌を、棒で叩き締める作業では本歌を歌い、一連の作業の間歌い続けられる。歌詞には作業のつらさしのぎや、収穫への喜びなどが歌われるが、作業が続く限り歌いつづけられるため、即興の歌詞もある。 この民謡は、藩政期より伝えられているものであり、この地方の生活文化の理解に欠くことのできないものである。
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所 在 地 大聖寺敷地 所 有 者 敷地天神蝶の舞保存会 指定年月日 平成18年6月27日 「扇の舞」「鈴の舞」「蝶の舞」の三種を総称したもので、明治・大正期には「蝶の舞」がおこなわれていたとの記録があり、それ以前のかなり古い時代から奉納されてきたと推定される稚児舞である。 現在でも毎年7月におこなわれる菅生石部神社天神講で舞われており、加賀地方に残る唯一の稚児舞として貴重である。
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所 在 地 塩屋町 所 有 者 シャシャムシャ踊り保存会 指定年月日 昭和34年12月10日 「シャシャムシャ」とは「笹叢」が訛ったものといわれている。浄土真宗中興の祖、蓮如上人が吉崎御坊を建てた当時、笹で覆われた中を、信者たちがかきわけて登っていく様を盆踊りの振りにしたといわれ、別名「蓮如踊り」とも呼ばれる。 この踊りは夕闇迫る海岸で、提灯とろうそくの灯りの中、波音と手拍子と仏への信心を歌った歌声のみの素朴な踊りであり、伴奏のない初源的な形態を伝える点が貴重である。
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所 在 地 山中温泉薬師町 所 有 者 山中節振興会 指定年月日 昭和37年11月16日 元禄の頃より、北前船の船頭衆が湯治の際に歌った松前追分を、山中温泉の浴衣娘が山中なまりで歌ったのが、始まりと言われている。
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史 跡 |
所 在 地 宮地町 所 有 者 宮地町区長 指定年月日 昭和36年8月9日 通称「じょうじゃの釜」と呼ばれる。火山集塊岩で、この付近に建立された宮地廃寺の塔心礎石で、この心礎石を中心として、「テラノマエ」「ヨコモンシタ」「コウド」など寺院に関する地名が残されていることから、約100m四方の範囲に寺域が広がっていたと推定されている。出土品より白鳳時代後半期のものと推定されている。
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所 在 地 深田町 所 有 者 深田町区長 指定年月日 昭和37年1月11日 深田町の東側にある約12mの小さな池で、名前の由来である鏡が池の底に安置されている。銅製の和鏡で鶴二羽と松の文様が描かれており、平安時代後期以降のものと考えられる。 江戸時代の記録によると、斎藤別当実盛が投げ入れた鏡であるという伝承が残っている。この池の泉は枯れることなく常に湧き出ており、また雨乞いの際にこの鏡を祀ると効果があるともいわれ、古くからの民間信仰の対象としても重要である。
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所 在 地 柴山町 所 有 者 柴山町区長 指定年月日 昭和37年1月11日 柴山町の北方約300mにある半鹹淡貝塚である。縄文時代中期に形成されたもので、当時の狩猟漁労生活を物語る貴重な資料が出土している。発掘調査により竪穴式住居跡の他、獣骨や魚骨、石斧・石鏃等が発見され、三角壔形土製品や土器類も出土しており、縄文時代中期特有の装飾性に富んだものである。日本海側における数少ない貝塚として、また柴山潟周辺の原始文化を表徴する貴重な遺跡である。
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所 在 地 八日市町 所 有 者 八日市町区長 指定年月日 昭和38年8月6日 平安時代末期の歌人西行法師が北陸巡錫中郷愁をおぼえ、都へ戻る際に、同行の弟子西住が西行と別れ、山中東谷奥村の西住に居住したといわれている。西住は師の面影をしのんで、別れの地八日市町に身代わり地蔵を建立したと伝えられる。加賀市で最も古い古典文学の伝承地として価値が高い。
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所 在 地 分校町 所 有 者 個人 指定年月日 昭和38年8月6日 明治4年(1871)11月に起きたみの虫一揆の首謀者として捕われ、獄死した新家理與門の碑である。 廃藩置県後の財政状態の悪化により藩政に不満をもっていた農民が、焼き払い、打ちこわしなどの一揆を起こした。一揆参加者の胴みのをつけていた姿がみの虫に似ていたため「みの虫一揆」と呼ばれる。一揆の首謀者として捕らえられた新家理與門は全責任を負い獄死した。この碑は悪政に立ち向かった庶民的英雄として、その偉業をたたえるために建立されたものである。 |
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所 在 地 吸坂町・黒瀬町 所 有 者 個人 指定年月日 平成元年6月23日 吸坂町・黒瀬町にかけての丘陵上にある丸山支群2基と、イカリ山支群6基である。丸山支群は発掘調査の結果、古墳時代初頭から前期末にかけての方墳3基と中期の円墳3基が築造されていたことが確認され、貴重な副葬品も出土している。イカリ山支群は1号墳が円墳である他は、方墳を中心とした小規模古墳からなり、丸山支群とほぼ同時期と推定される。未発掘で保存が計られた古墳が指定対象となっている。
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所 在 地 冨塚町 所 有 者 冨塚町区長 指定年月日 平成6年10月25日 5世紀後半に築造されたとみられる円墳である。現存する墳丘の裾の直径は約60mを計る。大半は盛り土で、体積では狐山古墳を上回り、同古墳に後続する首長の墳墓と考えられる。 南加賀の古墳文化を知る上で欠くことのできない遺跡であり、当市にとって歴史上及び学術上価値が高い。
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所 在 地 分校町 所 有 者 加賀市 指定年月日 平成20年12月18日 出土須恵器から、窯は6世紀後半から7世紀前半にかけて操業していたと考えられ、現在確認されている窯業遺跡としては市内最古であり、石川県内でも小松市豆岡向山古窯跡に次いで最古級のものである。現代に続く窯業のルーツの一端と捉えることができ、九谷焼を始めとする加賀市の代表的産業である窯業史を研究する上で欠くことのできない貴重な窯跡である。
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所 在 地 大聖寺下屋敷町 所 有 者 実性院 指定年月日 平成22年1月26日 大聖寺藩主前田家及びその分家にあたる家老家の廟所である。藩祖から最後の十四代に至る歴代藩主の墓が一つの敷地にすべて揃っている全国でも数少ない例であり、正室側室子女の他、藩祖に殉死した3名の墓も含まれている。臣下に降った分家も一段下った敷地に存在しており、封建時代の主従関係を示していることから、併せて指定し、保存を図る。
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所 在 地 分校町 所 有 者 分校町区長他 指定年月日 平成23年7月22日 分校古墳群は分校町前山、チハカ山、松山町大山の三支群からなり、国の重要遺跡に認定されている。前山支群は3世紀に遡る古墳群で、加賀市では最古と判断される前方後円墳四基が尾根上に分布しており、円墳、方墳合せて30基以上があったと推定される。一部が過去の土砂採取で消滅しているが、現在23基が確認されている。国の重要遺跡にも認定されており、加賀市の歴史上貴重な遺跡である。
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所 在 地 大聖寺八間道 所 有 者 江沼神社 指定年月日 平成23年12月21日 旧大聖寺川に面する藩邸河道は幅約11mで、11段の階段が設けられていた。北面石垣は、軟弱地盤に設けられながら、崩落することなく大部分が遺存しており、江戸中期における土木技術の高さを示すものとして貴重である。 大聖寺藩邸の石垣は、北面が唯一当初のまま残されており、河道とともに史跡として価値が高いと判断する。河道跡は現在復元整備され、川流し舟の船着場として活用されている。
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所 在 地 大聖寺関町 所 有 者 NPO法人歴町センター大聖寺 指定年月日 平成24年7月23日 大聖寺関は金沢藩前田家の領国支配上重要な関門として、慶長9年(1604)に越中境関とともに設置され、金沢藩の二大関門として最も重要視されていた関所である。 当該地は関所番所が建っていた敷地の一部であり、所有者によって関所門が場所を移動して復元され、かつて存在していた関所を顕彰する場所となっている。
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所 在 地 片山津町 所 有 者 片山津町区長 指定年月日 昭和35年10月7日 片山津町西側の標高30m前後の台地上に、4世紀後半から5世紀前半にかけて、古墳時代の代表的な石製装飾品を作っていた遺跡である。発掘調査により、住居と工房を兼ねた竪穴住居跡が33基確認され、これらは内部に玉類製作のための工作用孔を持ち、この場所で玉類の製作が行われていたことが伺われる貴重な遺跡である。
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所 在 地 宇谷町 所 有 者 個人 指定年月日 昭和35年10月7日 栄谷町と宇谷町の境界付近の舌状丘陵の先端部に位置する丸山の西側山腹を取り巻くように築造された古墳時代後期の横穴墓群で、現在12基の横穴が確認され、そのうち11基が指定範囲に存在している。ほとんどの横穴が複室構造で、玄室・前室・前庭部をもち、中には側室を持つものもある。 築造時期は7世紀後半と考えられ、市内では法皇山に次ぐ規模である。
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所 在 地 大聖寺地方町 所 有 者 加賀市 指定年月日 平成35年10月7日 大聖寺市街地の西端にある城跡で、藩政期には古城山と言われていた。水陸交通の要衝であり、重要な軍事拠点であったため、度々合戦の舞台となっている。 天正11年(1583)大聖寺城主となった溝口秀勝の頃、城跡の縄張りと城下町の原形が作られている。山口玄蕃後、城代が置かれたものの、一国一城令により廃城となり、以後再興されていない。江戸時代には、入山が禁じられていたため、城跡の保存状態は極めて良好である。織豊時代の領主本城としては、県内唯一の遺存例であり、織豊系城郭の発展課程や発達、伝播を知る上で、貴重な城跡である。
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天然記念物 |
所 在 地 山中温泉下谷町 所 有 者 下谷白山神社 指定年月日 平成10年2月1日 下谷町白山神社境内に自生する巨木で、大きさは全国的にみても上位に入る。 温暖な海岸近くの土地を主な生育地とするタブノキが、山間地のこの地に自生するのは極めて特異であり、その意味からも貴重な樹木である。 |
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所 在 地 熊坂町 所 有 者 加賀市 指定年月日 平成14年1月23日 加賀市環境美化センター建設の際、調整池建設予定地に絶滅危惧Ⅱ種の希少植物であるミズオオバコの自生が確認された。ビオトープ池として整備され、現在ではミズオオバコ以外にも絶滅危惧Ⅰ種のリュウノヒゲモやキクモなどの生育が確認され、また、昆虫類や鳥類も生息するなど谷地田環境が復元されつつある。 開発行為等に伴い、このような植生は激減しており、良好な環境として残った地域は極めて少なく、本来の自然植生を知る上で、貴重な存在である。
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所 在 地 山中温泉荒谷町 所 有 者 荒谷神社 指定年月日 平成15年4月7日 エドヒガンの変種で、枝が枝垂れるのが特徴である。このシダレザクラ群は四本とも健全な状態で、最大のものは幹周約2.8mに及ぶ。 植樹後わずか60年前後であるが、余程環境がよかったのか、樹齢からは考えられないほどの太さと、高さになっており、県内のシダレザクラの中でも随一の大きさを誇る。生育に適した環境に植えられれば、これほど巨大化するという指標を示す貴重な事例である。 |
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所 在 地 桂谷町 所 有 者 桂谷菅原神社 指定年月日 平成6年6月29日 幹周約7m、高さ37.5mを測り、県内でも有数の規模を誇る。桂谷町菅原神社社殿の前に位置し、古来より神木として崇拝されており、良好な状態で保存されている。 樹体の大きさ、樹勢の良好さ及び樹形の美しさから見ても、当市にとって、植物学上及び自然環境保護上、貴重な樹木である。 |
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所 在 地 分校町 所 有 者 分校町区長 指定年月日 平成8年5月27日 分校町ヌ七三番地に所在する大山桜は、胸高幹回り3.81m、高さ約15mを測り、県内でも有数の規模を誇る。 大きさや樹勢の良好さ及び、花色、樹形の美しさなどから見て、当市にとって植物学上及び自然環境保護上からも価値が高い。 |
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所 在 地 箱宮町 所 有 者 箱宮神社 指定年月日 平成8年5月27日 箱宮町の旧八幡神社に所在するスダジイは、九幹株立となっているが、もとは一株で主幹が腐朽し脇幹のみが残った可能性が高い。幹周総計がで16.73mを測り、市内最大規模を誇る。 大きさと樹勢の強健さ及び、樹形の美しさなどから見て当市にとって植物学上及び自然環境保護上、価値が高い。
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所 在 地 小塩辻町 所 有 者 小塩辻白山神社 指定年月日 昭和62年10月8日 神社の社叢として保存されてきた巨木群で。当地における自然林の原形を示す樹種が多いのが特徴である。なかでもケヤキ・スダジイ・タブノキが特に大きく、樹齢は少なくとも500年は下らないと想像される。 当該神社の巨木群は樹勢が盛んで、保存管理状態も極めて良好である。これらは、当地域における自然植生の特徴をよく示す貴重な存在である。
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所 在 地 小塩辻町 所 有 者 個人 指定年月日 昭和62年10月8日 旧大聖寺藩十村役を務めた鹿野家屋敷跡の巨木群で11本のスダジイからなる。 幹周は最大のもので、8.73m、樹高21.5mで、地上約1,2mで五枝に分かれている。樹齢700年を超えると推定され、全国的にみても最上位の大きさである。他の10本も樹齢300年以上と推定され、県内では数少ないシイの巨木群として貴重な存在である。 |
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所 在 地 大聖寺神明町 所 有 者 宗壽寺 指定年月日 平成元年3月23日 宗寿寺山門脇に位置する。地上7~11mの主幹上に寄生木のヤマウルシ・ウメモドキ・タブ・ネズミモチ・ハイイヌツゲ・ツタウルシの六種の樹木を着生させているのが特徴である。かつては主幹頂部に杉が聳えており、特異な景観をしていた。また、その大きさも稀である。 多種の樹木が着生していることが珍しく、景観も特異であり、当地方の自然植生を示す貴重な例であり、植物学上価値が高い。 |
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所 在 地 尾俣町 所 有 者 尾俣町白山社 指定年月日 平成22年6月29日 カバノキ科のアサダは樹皮に特異な外観をもつ落葉高木である。石川県内で公表されるアサダとしては最大の幹周りを誇り、また、環境省の全国巨樹・巨木林データベースによると、幹周り3.0mを越えるアサダの抽出件数は16件に過ぎず、全国的にも極めて稀な存在であり、文化財的価値が高い。 |
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名 勝 |
所 在 地 大聖寺八間道 所 有 者 江沼神社 指定年月日 昭和35年10月7日 宝永6年大聖寺藩三代藩主前田利直により造園されたと伝わる。 池を中心にして錦城山側の西端に築山を配置し、豪壮な自然石を組んで深山幽谷を表現している。かつての池の導水は東端からで、深山渓谷を表す豪快な石組みを経て石橋を潜り、玉石敷きの間を流れて池に注いでいたようである。 当該庭園は、外苑的地泉廻遊式庭園としては兼六園以外に県内唯一の大名庭園として価値が高い。
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